どうも。ナガモトです。今日はお日柄もよかったのでサイクリングがてら足利美術館に行って参りました。正直、全く期待してませんでしたが、大層おもしろかったので、そのご感想など。
まず、その前に最近、自分の中で絵の評価の問題として、保存の問題は重要だなと感じるところがあります。これは端的に傑作が出来ましたら、その絵を残したいというのが人情でしょう。であるならば、その絵の保存したいかどうかの自他の評価は、それがそのまま絵の評価につながるのではないでしょうか?というような単純な感想であります。
しかし、その原理は単純ですが、それを至って単純にさせないのが人の世であり文化なんでありまして、つまり、何が言いたいかというと、この世の中で作品を保存する為に一番良い方法というのは、美術館に収蔵される事でしょう。それも由緒正しき歴史ある未来永劫つぶれそうもないルーブル美術館とかMOMAとかそういう所に収蔵されると良いですよね?というのが良いでしょう。
では、さて、果たして、であるなら、自分はそこに収蔵されて胸を張れる絵を創れましょうか?というのは、とりあえずの画家の試みの一つの価値基準にはなりましょう。逆に言うと、保存の問題がどうでもいいという作家に置きましては、それは単なる独立独歩で他人は関係ないの類か、そもそも絵に評価は無い。フラット。という考え方なのかどっちかだと思います。それが悪いという話でもないです。
と、こういう事は要するに、もう一つは絵を描くと絵に宿りがちな宗教性の問題が絡むという事のようにも思います。宗教性と言っても、これは現代最強の世界信仰たる貨幣経済の問題などとも切っても切り離せないそういう広い意味での信仰のお話です。まあ、そうした信仰と絵とは無関係ではいられないし。何故なら、それは絵が文化のタネだからで、結局は、その好き嫌いすらも信仰の問題と無関係ではいられますまいというのが、とりあえずの自分の絵を描いての意見です。
ちなみに自分も自分の人生の教義たる唯識思想こそが絵の評価を決定づけているといった面が少なからずありますし。但し、当然の如く、同時にグローバル貨幣経済の思想も自分の観念を同時に幅広く決定づけていくのも当然なのです。それが現世でしょう。
というこうした事の表現をパースペクティヴにしていくにはどうしたらいいか?それは当然、その延長に色や造形以上にマチエールの現場主義的神秘性に関わる問題があると言えます。ここでようやく絵の話が若干具体論に入っていけるわけです。
前置きが長くなりました。で、この美術展なのですが、この展覧会が面白かったのは、そこに名前がない事です。作家名がない。代わりに宗教的価値が高いものが多い。古代の美術は大体、宗教的価値から立ち上がってるものではありますが、そうだとすると、その価値もまた当時の文化の参照点として、美術館が大切に保存すべきものなのでしょうか?これは博物館の仕事でしょうか?
という境界上に「美」の問題は存在していて、今回の展示で、とりわけ13世紀の能面はすごいな。天才の所行だ!と感じられたのですが、そこに作家名がありませんものを天才の所行だとするのは、果たしてそれはどうなんでしょう?という面も無きにしもあらずです。
というのも、当時の文化を詳細に検討できる目利きでないとこれが当時の文化のポジションとしてどうなのか、いやさ天才のレプリカであるかオリジナルかどうであるかも「保存の問題」として、その因果関係が分からないし。そういった事を知らなければ、レプリカでも充分、人は感動できるからです。
というような簡単な一面も一応、技術論をベースとしない芸術の観念において間違いなくあります。技術的に人類のフルスペックをやるのが芸術なのか?違うだろう?という事です。という時に「個人」ないし「個性」は立ち上がって来るのが近年の美術です。なれば、そこに真贋は重要です。が、しかし、果たして、それはインターネット時代のフェアユースの概念と立ち向かってどうなんでしょう?或いは、作品主義から言って、ぱっと見て良いものが良いと言うならどうなんでしょう?という13世紀からの問題提起と現代の問題提起のこんにちわ!がこの展示を見ての自分の一番の感想です。
というのと、もう一つの問題にアフリカンアートの存在です。アフリカンアートと言っても、ここで飾られてる作品は厳密にはアートではないです。部族のアイテムです。であるなら、それは厳密にはアートではないけど、しかし、欧米的視点から見れば、アートなのかもしれないし。単純にピカソの元ネタと考えるとアートの世界にこんにちわ。という面があるのも否定できません。
という意味において、基本的に現代においてもアフリカの部族は、世界的な貨幣経済の余波から全くの無縁だとは言いませんが、しかし、日本人のそれにおきますよりは縁が遠いという事は言えましょうから、それはどうでしょう?
その中での創作と言うのは、一体、何を根拠にやっているのか?これは一つのポイントでしょう。まず優劣はあるのか?あるとして、その優劣の判断は何か?という問題です。
個人的に人間に霊性といったものはあると思います。と言うと、オカルトか!と言われそうですが、そういうわけでもなく、まあ、単純にまだ科学では把握できない未知の因子が相当数細かく人間の世界にはあるだろうというような事です。なので、絵の評価もそれこみで未来予知すべき点はあるのではないか?とか、そこを把握できる感性こそが重要なのではないかとか。その為には歴史の参照も必要です。という現実主義も必要ではないかとか。
とはいえ、基本的に、霊性をふくめて絵を描く、或いは、ものを創るという行為で拡張できる、或いは、言語以外のもので把握する。といった事は何分、言語以外の事でやってるので、ここでは、それを全く説明できません。なので、それは単なる錯覚かんちがいの類である事もまた同時に否定出来ません。出来ませんけど、それに賭けるか否か??賭けるならば、それが否定されても一向に気にならないのも事実です。それが信仰です。ヤバいかもしれない。というエッジに立つのが芸術家の役目でしょうか?
と話が脱線して長くなってしまって、あさってすぎるので、では、この展覧会の結論を書きます。そんな事はともかく、単純にこの展覧会、見てぱっと面白かったです。以上。
ではでは。あと、立体と平面の関係とか、マチエールの問題に関しても色々おもった事があったんですが、めんどくさいので、それは、あとで文フリ用に書いてる「絵について」の文章に譲って、ここはこのお話の方はこれにて閉めさせて頂きたいと思います。ちなみに、その文章、文フリ用と言っても、それをその前にパブーかどこかで電子出版したいとも思っていますので、そん時はよろしくお願いします。100円だと思います。